院長が院長になるまでのお話

第一章  ~ 独身時代 ~ 

現在院長である私がまず初めに申し上げたいことは、私が一生かけてしてきたこと、又、これからしていくことは「とてもちょっぴりとしたこと」ということです。

もし私が100年生きたとしても、それは大きく考えれば一瞬のこと。それでも、私は走り続けて・・・それは幸せでした。

私は、小学校は静岡大学附属小学校。中学校は静岡大学附属中学校で学びました。中学1年生のある日、担任の先生に言われました。

「君達は、人を導く人となるべく、今 ここにいる。」

それまで言われたことだけを受け身として生きていくことが当然だと思っていた私は、この時、この言葉の意味が分からず、長い時間をかけて考えるようになっていくのでした。高校は、本当はある共学の学校へ行きたいと思っていました。しかし「男の中に女が2~3人など とんでもない!」 と母に言われ、結局、女子高へ行かされてしまいました。

大学は、本当は医学部へ進学したいと思っていました。しかし、また母の言葉が飛んできました。「医者になどなって嫁の貰い手がなかったら、親は死に切れない!!」

しかも、地元にある歩いて通える薬科大学しか許可を得ることはできませんでした。

静岡県立静岡薬科大学在学中、当校にてちょうど日本薬学大会が開催され、
Dr.Kochakian というアメリカの先生が特別講演にお見えになりました。

私は学長の依頼で、学会期間中、博士のお世話をさせて頂くことになりました。すると、その博士に往復の旅費さえ用意すればいいから・・と、留学を勧めて頂きました。

当時としては、またとない ビッグチャンス です!

しかし、やはりと申しましょうか。またまた母が出てきました。

「留学などして、一生家庭を持たなかったら とんでもないっっ!」

結局、留学は諦めました。
しかし母の心配通り、留学は6~7年に。留学した男性は帰国後すぐに山口大学の助教授になり、その後、教授になりました。女の私が行かなかったことは、正解だったのかもしれません。

私はと言うと・・・化粧品会社の研究所に就職し、その2年後に歯科医である現在の主人と結婚しました。嫁に行かせることが最大の親の責任と考える母の望み通り、私は嫁に行き、人並みの主婦となったのです。

第二章  ~ 結婚と歯科衛生士学校 ~

私は24歳の時に、初代が1916年から始めた歯科医院の3代目である主人と結婚しました。
しかし、26歳の年、主人が診療所を新築する際に倒れ、 歯科医院は半年ほど休診となってしまいました。私は薬学出身でしたので、何の役にも立ちませんでした。

そして、少しでも主人の助けになれば・・と、歯科衛生士学校に入学しました。
これが、今思えば、それまでの受け身の人生にピリオドが打たれた瞬間でした。

それから、生後11ヶ月の長女を抱いて東海道線で1時間10分の通学という生活が始まりました。駅で待つ実家の親に長女を預け、学校へ行き、また連れて帰る毎日。 母は 「おっとりとした娘だったのに なんと忙しい毎日を送るのですか・・」そう言って嘆いていたものでした。

幼い子どもを抱いてノートを見る私たち母子・・・列車の中で1000円札を手渡して下さった紳士は何を思ったのでしょう。

診療所はと言えば、義姉が代診に駆けつけてくれ、その間に主人も回復しました。しかし、今度は二度ほどでしたが、私の心臓が苦しくなることがありました。幸い、学校が静岡県立中央病院内に併設されていたため すぐに手当てを受けることができ、助かりました。

その他にも語り尽くせない出来事を経験して歯科衛生士になることができました。

しかし、歯科衛生士になったらなったで、 今度は小さな子ども達に「女の先生だったら歯を抜いてもいいよ。」 などと言われるようになりました。これ等の言葉がきっかけとなって、
1年間受験勉強をして歯学部に学士入学することになったのです。

子育てしながらの通学は、本当に色々な・・・ 今だから大笑いできるような・・
そんな出来事が沢山ありました。

第三章  ~ 子育てしながらの通学 ~

次女が3歳の時のことでした。次女は、普段は地元の幼稚園に通い、 時々、私と新幹線で歯科大学の附属である鶴見總持寺の三松幼稚園に通学していました。ある日、かかりつけの小児科の先生から次女とのスキンシップ不足を指摘されました。それからは、一緒に上野公園へ遠足に行ったり運動会やお誕生会など、できるだけ幼稚園へ足を運ぶようにしたものでした。又、時々、横浜に住む姉にお願いして付き添いもお願いしたりもしました。

大学の授業は・・・と言うと ついつい寝てしまい、当時はコピー機がなかったため休み時間は、ノートを写させてもらい、昼休みは自宅の歯科医院の人事や経理や税務の作業で(当時は携帯もなかった時代でしたので)大学の公衆電話をかけまくりました。

補綴の助教授からは、その年 こんな年賀状が届きました。
「僕の授業は寝てていいよ。」

バレバレだったんだ。 (∀ ̄;)(; ̄∀)

この素敵な先生は、現在東京医科歯科大学の学長をされています。放射線科の教授の目の前でも ポリクリ 寝てしまったこともありました。

「沼津なんて遠くないぞー!」

そんな声で目が覚めたのです。 ( ̄ー ̄;)ゞ

154人の階段教室の最上段では 「お母さん、ま~だ~ぁ?」 と、幼稚園が早く終わってしまった次女の小さな声と、ポリポリバリバリ・・ というお煎餅を食べる良い音が響き渡っていました。

通学時のエピソードも幾つかありました。列車の中でグッスリ眠り、降りようとした時でした。見知らぬ女性が親しげに私に近づいてきたのです。さすがに、危険を感じて身構えました。・・・と、その女性が耳元で囁きました。 (/^o(・・*)「服が裏返しですよ。。。」
il||li▄█▀█●ヽ(・ω・`)ポンポン♪

列車は、片道2時間半・・・行きは予習、帰りは復習の毎日でした。
家では勉強する時間はなく、家事、育児・・幼稚園児や小学生の親としての諸々の仕事・・・更に、歯科医院の人事や経理の作業が ドッサリ・・・・

試験当日、雨の中、傘をさして、 ノートを見ながら自転車で走っていたのを友達に目撃されてしまったり・・・・(危険行為なので絶対に止めましょう。)

患者さんには「駅の地下道で思いっ切り転んだのに、すくっと起きて走っていったよ。
痛かったはずなのに、すげーーー と思って見たら、川口さんだった。」
そんな現場を見られてしまったこともありました。

そんなこんなの学生時代でしたが、お姑さんが嫁の卒業を楽しみに2人の幼い娘たちを見守ってくれ、 私はとても恵まれていたんだなと思います。歯科大卒業後も、そのまま特別研究生として6年間勉強をさせて頂きました。

現在も、ニューヨーク大学、南カリフォルニア大学、鶴見大学、神奈川歯科大学で学ばさせて頂いています。

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第四章  ~ 子育て、そして今 ~

主人と結婚し、主人が倒れ、そこから走り始めたのです。現在も、主人と共に、海外研修をさせて頂いています。

世界65カ国加盟の ICOI( International Congress of Oral Implantlogists) の審査員になってからは、台湾、韓国、中国によく出かけるようになりました。それまではアメリカやヨーロッパ一辺倒の考えでしたが、アジアを知ることで、日本の中にいて広い世界を知らないことの危うさを感じることができました。私は、何故、こんなにまで走り続けたのか・・・。私は歯科大の受験の際に悩んだ時、自分自身に問いました。
「自分の臨終の際に歯科医になって良かったと思うだろうか?」
自分自身から返ってきた答えは「思う」でした。 その時に決めたのです。

絶対に弱音を吐かない。
絶対に離婚を招かない。 

デメリットは全て自分が引き受ける。

寝る時間を減らすしかない。己の健康管理に努める。今、母のひと言ひと言が甦ります。

「子を持って知る親の恩」

人が一生に知りうる知識は、なんとちっぽけなのでしょう。しかも能力には限界があります。 これは仕方のないことなのです。だから今も今後を期待されている若い先生方の仲間に入れて頂いて勉強させて頂いているのです。

大学卒業後に生まれた息子は、それはそれは親孝行でして、私達夫婦は未だにハラハラさせてもらい、夫婦仲良くせざるを得ない毎日です。
先日、子ども達が昔を思い出して話していました。我が家に集まると、昔私に言えなかった話で盛り上がってしまうのです。

「お母さんのお弁当は怖くて開けられなかったよ。」「フタを開けたら、アジの開きがご飯の上にバタッと乗っていたのには驚いたなー。」「あれ以来 フタを取って弁当を食べることはなかったなー。」「他所のお母さんは『明日のお弁当は何にしようかしら』って買い物に行くのに、うちは朝になって冷蔵庫を開けて『何があるかなー?』だったもんね。」

我が子のいじらしさに、心が痛んだことを思い出します。

子ども達・・・・ お父さん(主人)、お姑さん・・・ スタッフの皆さん、お友達、
列車で出会った方々、 歯科大の先生方や同級生・・・
受験で教科書を用意して下さった地元高校の先生・・・
助けてくれた実家のお父さん、お母さん、お姉さん・・・・・・・・ そして・・・・・神様。みんな、ありがとうございます。

どうか、皆様も 素敵な人生をお願いいたします。
人生の出来事には、それぞれ意味があると思うのです。

KLTメモリアル歯科 院長  川口和子